弁護士コラム~家事事件の現場から~家庭に関する法律相談を担当した弁護士がリレーでコラムを執筆しています。

兄妹は他人の始まり その1

2006年11月01日 相続

(1)Cさんから二十数年前の父親の遺産相続の話を聞いた。

 舞台は関西の大都市。Cの祖父は北陸の田舎から出て来て繊維問屋に丁稚として住み込み、実直な性格を主人に見込まれ、商才にも恵まれて、次第に産をなして独立し、祖父亡き後に父が家業を受け継いだ頃には、父母、長男A,長女B,次女Cの三人の子供が、戦時下とはいえ平穏な生活を送っていた。
 唯一気懸かりなことは、近郊の農家から嫁いで来た母が生活習慣の異なる都会の商家の生活に馴染めず心身ともにすり減らして、病気勝ちであったことである。
 父は、祖父とは違って性格的には余り商売に向いていなかったようだが、それでも番頭達の支えもあって家業は順調で、彼等にも暖簾分けをして独立させたりしたが、戦争末期になると統制経済のため商売も次第に先細りとなっていた。
 1945年3月の空襲の際は、父母は燃えさかる猛火を避けて子供の身を守るのに精一杯で、生活の本拠であった店舗兼住宅も一夜にして灰燼に帰した。
 やがて敗戦。空襲によって生活の基盤を失った一家にとっては商売再開どころの話ではなく、一家は母の実家に転がり込んで、そこで暮すことになった。
 もともと商才がなかった父には戦後の猛烈なインフレと食糧難を乗り切るだけの才覚がなく、病気勝ちの母とまだ幼かった子供を抱えて、先ず彼等に食べさせることが最大の仕事であった。
 母の実家は食糧には困らないはずの農家であったが、食べ盛りの三人の子供を抱えて戻って来た一家にとって、実家とはいえ、其処は必ずしも暖かい場所ではなかった。
 戦後の猛烈なインフレと窮迫した食生活を乗り切るための差し当たりの手段は、焼け残った土地を切り売りするかそれとも貴金属、着物等の身の回りのものを食糧と交換するいわゆる竹の子生活しか残されていなかった。
 戦後の混乱が少し収まって来た頃合いを見計らって、一家は何軒かの家作の一軒に住居を構えることとし、平行して戦前より規模は小さくなったが焼け跡で家業を再開した。

(2)Cが結婚して東京で生活するようになって間もなく、病弱だった母は、Cの結婚を見届けて安心したかのように他界してしまった。
 Aは母の生存中に結婚して同居しており、Bも既に結婚して家を出ていたので、父はAの一家と生活を共にすることとなった
  Aは、土地では有名な旧制中学校に入学したが、空襲で自宅が焼失した際に教科書が焼け
てしまってからはすっかり勉学の意欲を失い、父から進学を勧められたがその気力もなく、何となく家業を手伝うような形になったが、本気でやる気がなく、父もそのことを気にしていた模様である。
 Bは、土地の有名高校を卒業し、資産家の次男と結婚したが、子供がなかった。
 Cは、Bと同じ学校を卒業後地元の国立大学に進学したが、Aが「女に学問はいらない」と猛反対したことはCにとって思いも掛けないことであった。

(3)その後父が狭心症の発作で倒れ、2ヶ月ほど入院して家に戻ったが、加齢とともに精神的にも肉体的にも老化が進行し、看護が必要な状態となった。
 見かねたBが「私の方は子供もいないので父の世話をする用意がある」とAに申し入れたが、Aが「長男の責任だから私の方で面倒を見る」と拒否したので引き下がったという一幕もあった
 Bは、父とは車で1時間ほどの距離に住んでいたので、できるだけ頻繁に見舞うように努めていたが、Aの妻がBの見舞いを余り快く思っていない様子であったため自然と見舞いの回数も減り、又Cは東京居住という地理的条件と子供の養育中という事情もあって、頻繁に見舞いに行くことはできない状況であったが、たまさかの見舞いの際に、父がAの妻に非常に遠慮している様子が見られたし、又あるときは「嫁から意地悪をされる」と呟いた父の一言が気になって眠られない夜もあった。
 その後父は痴呆症状も現れて見舞いに来たBやCの顔を見て「何方ですか」と訊ねることもあり、老化も更に進んで、排尿、排便等の世話もAの妻が取り仕切っていた。
 そういうあるとき、Bが父を見舞った際に、父が「わしも到頭一文無しになってしまった。Aに公証人のところへ連れて行かれて『全財産をAに相続させる』といわされた。お前やCのことも気になったが、現に嫁には世話になっているし、嫌だということもできなかった。悪く思わないでくれ。」と泣かんばかりに訴えられ、CもBを通じて事情を知った。

(4)1年ほど経って父が他界し、その葬儀が終わって暫くした頃、突然AからCに「父の遺言で自分が全財産を相続することになった。遺産相続のため必要だから印鑑証明書を送ってほしい」と連絡があった。
 Cの夫は「遺産の総額等詳しい事情も良く分からないし、書類も見ないまま印鑑証明書を送るのは慎重に。遺言があっても遺留分を主張することもできるのだから、兄妹の間でよく相談したら」とCに説明した。
 然し、Cは、夫の説明にもかかわらず、Aから詳しい説明を聞くこともなく、遺留分の主張もしないで、印鑑証明書を送ってしまった。
 というのは、当時Cの全神経は、適齢期の長女の縁談に集中していて、遺産相続のことまで考える気持ちの余裕はなかった。
 小さい頃から自己本位で、何となく反りの合わなかったAと交渉するということ自体、考えただけでも気が重く、さりとて裁判や調停の場に持ち込むことは真っ平御免という心境であったし、弁護士に依頼することは考えたこともなかった。
 ここはAのいうとおり印鑑証明書を送っておけば争いは起きないし、いくら強欲なAでも判子代くらいは考えてくれるだろうという気持ちもあった。
 Aの妻が父の介護をしてくれていることに対する娘としての精神的な負い目もあったし、又病弱だった母に代わってCの母親代わりを自認していたBが前々から「私は一銭も要らない」という態度であったこともCの判断に何らかの影響を与えたかも知れない。

(5)遺産相続に関してAからCに対して協議らしきものがあったのはこのときだけで、AとBとの間でどのような交渉があったのかもCは関知していない。
 その後Aからは何の連絡もなく、Cも娘の縁談に全力投球できるようになったことに内心ホッとしていた。

 ところが、家業再興のため頑張ってくれるものと期待したAが、生前父が心配していたとおり相変わらず家業には精が出ず、10年ほどして遂に唯一の財産であった店舗、土地を手放してしまった。
 バブル末期のことだったので、結果的にはうまく売り抜けた形となったが、Cは、期待を裏切られた失望と自分の判断の甘さに対する悔しさを味わうことになった。
 Aとの間に大きい亀裂が出来てしまったことを痛感したCは、何となくAとは疎遠な間柄となってしまった。

 最後にCが寂しげにポツリと一言付け加えた。「昔から兄妹は他人の始まりといいますが本当にそうですね。」

 以上がCさんの話の概要である。 (続く)

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